まよあん

或るキリスト者の祈り

ヨシュア記 一章

モーセさんが死に、モーセの従者で、ヌンの子であるヨシュアさんに神さまの声が下ります。

<「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」>(7,8節)

この後、ヨシュアさんはすぐに行動に移します。素晴らしい信仰です。

ここで僕が注目したいのは、イスラエルの民は、自分たちの繁栄のために、神さまから与えられた命令を自分たちの力で守らなければならなかったという点です。自分たちが繁栄するというのは、当時においては自分たちが安定して生存し続けるために必要なことでした。つまり、神さまの命令を守ることでイスラエル民族とその国家は安定して栄え、子々孫々と受け継がれていくということになるのでしょう。

さて、僕が重要だと考える点は、旧約においては、神さまの命令を自分たちの力で守ることが、自分たちの存在の必要条件であった、ということです。自分たちが存在するためには神さまの命令を守らなければならなかったわけです。そして、神さまの命令を守れば、神さまは繁栄を与えてくださり、イスラエルの民の存在を保証し続けてくださる、そういう約束であったと読めます。

僕は、ここに人間存在の苦痛を見ます。
僕たち人間は自分の存在を社会や他者に対して存在足らしめるために自分たちの力で努力し続けなければならない、そういうことを意味しているのです。
神さまからの繁栄を得るために人間が努力しないといけないのと同様に、僕たちは社会に受け入れてもらうために努力しなければならず、他者に受け入れてもらうために努力しなければならないのです。
僕たちは努力しないでは、自分の存在を存在足らしめることはできないのです。努力なしでは誰かに受け入れてもらうなんてことはあり得ないのです。
そこに僕は人間存在の苦痛を見るのです。

これが旧約における神さまと人間の関係です。
しかし、アダムとエバの物語を読めばわかりますが、この関係を望んだのは人間なのです。神さまからの一方的な愛を受け入れず、自分たちの努力によって自分を自分足らしめることを望んだのは人間なのです。

僕たちは、強くなければならず、雄々しくなければならず、神さまの命令を守らなければならないのです。そして、それを望んだのは、いや、望んているのは僕たち自身なのです。
しかし、僕たちにとってそれらを達成することがどんなに絶望的であるか、僕たちはその事実を痛いほどによくよく身に染みて知っているのです。

しかし、最後に神さまは希望を語ってくださいます。

<「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」>(9節)

そう。神さまが共にいてくださる、だから、僕たちは強くあることができ、雄々しくあることができ、恐れることなく、おののくことなく、神さまのもとで憩うことができるのです。

そして僕たちは「神さまがともにある」とはどういうことであるのか、注意深く考える必要があります。「神さまがともにある」という事実は、イエス・キリストによって実現したのですから。
僕たちは、イエス・キリストの十字架による神さまからの一方的な愛を受け入れるときに、いや、そこにしか僕たちの希望はないと全存在から知る時に、僕たちは真の意味で神さまのもとで憩うことができるのです。

僕たちの努力は絶望的です。しかし、神さまの愛と恵みは希望です。

 

※聖書引用はすべて、『聖書』(新改訳第三版 新日本聖書刊行会)

徒然なるままに

これまでの、キリスト教は、さまざまなものからの解放を行なって来ました。

律法からの解放、ローマ帝国からの解放、固定化されてしまった教会からの宗教改革による解放、迷信や魔術的なものからの理性による解放。

さまざまなものからの解放を行なって来たキリスト教は、ついに神からの解放も人間にもたらしました。

その結果、現代において人々はあるゆるものから解放され自由になり、それゆえに、どこに行けば良いのかわからなくなってしまいました。

“解放の神学”は確かに、キリスト教の歴史としては正しい面があります。

しかし、解放がキリスト教の本質ではないのです。すべてからの解放がキリスト教の本質ではない。

キリスト教の本質とは、神への回帰なのです。

僕たち人間がいかにして神へ回帰するのか、その問いの答えがキリスト教の本質なのです。

 

そして、キリスト教は、神からの一方的な恵みによらないでは回帰できないと回答しているわけです。

 

さて、この恵みの上に何かを付け加えようとしている人は誰でしょうか?

主イエスの十字架の他に何かを付け加えようとしているのは誰でしょうか?

そんな人はキリスト者ではりません。

偽者です。偽キリスト者で、偽キリストです。

 

パウロや使徒たちは何と言っているでしょうか?

彼らは、キリスト教的倫理や道徳をどのように語っているでしょうか?

 

キリスト教的倫理や道徳はキリスト教にとってきわめて重要です。

しかし、彼らがそれらを救いの条件としたことは一度としてありませんでした。

聖書は、神の愛の応答として、僕たちキリスト者が行なうべき行動を記しているわけです。

神と人とを愛する、その愛し方、愛するとは何かをそこで語っているわけです。

 

では、僕たちは神と人とを愛さないといけないのでしょうか。

その通りです。

僕たち人間は、神に創造された存在として、神と人と、そして被造物のすべてを愛さないといけないのです。

しかし、僕たちはそれを完全に為すことができないのです。

使徒たちが語った行動、つまり聖書が示す内容を行なうことは大前提です。

しかし、それを行なえないということを律法が証明してくれたのではありませんか。

神に従い続けて来たイスラエルの民がその不可能性を証明してくれたのではありませんか。

なのになぜ、もう一度、僕たちの行為に救いの条件を置いてしまおうとするのですか?

あなたがやろうとしていることは、旧約の律法の位置に、新約の命令を置き換えてしまっているだけではないですか。

 

僕たちの主が、そんなことを為したとは僕には考えられません。

しかし、もし主がそのように為したのでしたら僕に教えてください。

僕が日本の再軍備に反対する理由

僕は日本の再軍備に反対だ。

理由は、何だろう。
実は良くわからない。
ただ、感じていることは、戦争は絶対に良くないということだし、戦争は軍隊がなければ起こらないと思っている、それが核になっている。
ことは非常に簡単。
軍隊がなければ、戦争は起こらない。ただそれだけ。

こんな考えは平和ボケボケの考えなのかなぁ。
みんなは平和に暮らすことをしたくないのかなぁ。

みんな平和に暮らしたいけども、世の中そんなに甘くないってことなのかな。
韓国がいて、中国がいて、ロシアがいて。領土問題があって、レーダーを照射されちゃったりもしている。
そんな中で、軍隊を持たなくて良いなんて言うのは売国奴的発言なのかなぁ。

僕は戦争のない世界というものをただ望んでいるだけ。
でも、もしも僕が売国奴であるとするなら、やっぱり人間の力では平和な世界を作り上げることなんて不可能だってことだよね。
戦争をしようがしまいが、軍隊を持たないと国の安全は守れない。軍隊を持っていないと、どんどん侵略されちゃう。国際社会も、丸腰の相手に向かって、軍隊を使って侵略することを良しとしちゃう。良しとしなくても、黙認しちゃう。そういうことが前提だってことだよね。

つまり、僕たちは、本質的にお互いを信用しあうことなんかできないし、お互いを認めあうなんてこともできない、そういうことをきちんと理解しているってことだよね。

それなのになんで、みんなは平和を望むんだろう。平和なんてハナから無理な話なんじゃないかな。

人間の力を頼る限り、平和な世界なんて実現不可能だよね。
だって、お互いがお互いを信用することができないし、いつも武器を持っていないと安心して夜も眠れない。そういうことなんだよね。で、武器を持っている限り、いつ戦争が起こっても不思議じゃない、平和なんかあり得ない。そういうことになっちゃうよね。

僕は世界が平和であって欲しいと願っている。そして、日本はこれまでも軍隊を持たずにやって来られたんだから、これかもやって行けるんじゃないかって思っている。
もちろん、日米安保とか自衛隊とかそういうグレーな部分はあるかもしれないけど、それでも日本は軍隊を持たずにここまでやって来た。だから、軍隊がなくてもやっていける国として、平和な世界のモデルになれるんじゃなかって思っている。
まぁ、日本の企業とか軍隊ではなくても他国を搾取してしまっている部分はあるかもしれないけど。

でも、人間というやつの力を信じるのだとするなら、やっぱり、軍隊は必要ないんじゃないかな。

人間という奴が信用ならなくて、神様しか頼るものがないと考えるのなら、それでもやっぱり軍隊はあっちゃいけない。神様はすべての人を愛しているのだから、殺し合う道具なんか持っちゃいけない。

つまるところ、軍隊を持って良いって考えるのは、人間の力を信じていなくて、平和な世界なんて絶対に来ないと信じている人たちなんだろう。

人間の力を信じている人とか、あるいは神様の力を信じている人、そういう人たちは絶対に再軍備に賛成するはずはないんだ。いや、むしろ、反対するはずなんだ。

僕は確信的にそう思っている。

遺しておくものとして

一応、誰かの目に触れるものとして書いておかないといけないことなので。でも、おそらく、ここに書いても誰も見ないであろうから、ここに、書いておこう。

僕が突発的に死んでしまうことはあるだろう。でも、それは誰かが悪いわけではない。僕のまわりの何かが悪いわけではない。神さまが僕を救えなかったわけでもない。ただ、僕が自分に死ぬことができなかっただけなのだ。僕の自我への執着が引き起こした出来事なのだ。この出来事は僕の、ただ僕個人のカイロスとしてだけ存在するのだろう。僕が僕自身を愛するがゆえに、どこにも行かれなくなってしまったという、なんとも自分勝手な話なのである。僕が、自分のことしか考えることのできないような僕が、この世に生を受けてしまったことをこの世に対して本当に申し訳なく思うしだいであります。僕と出会わなければ良かった人がなんと多いことでしょうか。ここまで、育ててくれた父母、兄弟、叔母、ここまで、いっしょにいてくれた妻、僕の子として誕生してくれた娘、そして、僕のまわりにいる人すべてに本当に感謝するとともに、謝罪の気持ちでいっぱいです。
この世界が、なんの妨げもなく、みんなが、なんの障害もなく、愛し愛されるという関係を築くことができれば良いのに。
マラナタ

最後に、繰り返しますが、これは誰かが悪いというわけではないのです。自分に死ぬことができなかった一つの存在が、それならいっそ、実際的な問題として自分を殺そうという、ただそれだけのことなのです。

しかし、この出来事は今すぐかもしれないし、来年かもしれないし、何十年後なのかもしれない。でも、いつかわからないゆえに、誰かの目に触れる形で遺しておかないといけないものなのである。
それは、ある人のために。

帰りの電車の中で

今日は大学生に取材を受けた。
質問項目があって、カメラの前でそれらに応えて行くわけだけど、その質問項目の意味がわからなかった。
何を聞きたいのかが良くわからなかった。だから、僕も答えに窮してしまった。

質問というものは本当に難しいものだなと改めて感じた。

相手をきちんと知らないと、相手に届く言葉というものを発することはできない。でも、わからなくても、何かを発しないと、相手を知ることはできない。

相手を支配するためではなく、相手を把握するためでもなく、相手を自分の中に閉じ込めるためではない、ただ相手を知りたいという欲求こそが、僕たちに与えられている愛への欲求なのだろうと僕は思う。
相手を自分とは異なる個として認め、そしてその上で、それでもわかりあいたいという欲求こそが愛の欲求なのだと。

一方的な質問というものに愛はない。
相手をやり込めるための情報収集、相手を操るための情報収集、相手を自分の経験の類比として納得するための情報収集、そういったものに愛はない。

僕には、愛というものを紡ぐことはできない。僕は結局、自分の安心のために生きているのだから。でも、本当の愛というものの中でまどろみたいものである。

僕の主義も主張も、僕の存在のすべてが愛の中に溶け込んでしまえば良いのに。
僕が自分を主張することをやめて、あなたを受け入れるということからはじめられたら良いのに。

僕は、こんなことを書いている時点でそれはもう無理な話になってしまっているわけなのですが。。。

神さまだけが、僕の望みのすべてだということなわけです。詰まるところは。。。

「罪」とは何だろうか。自分の中に「罪」があるというけども、それはいったい何なのだろうか。ルールや決まりがあって、それを守れないことが「罪」なのだろうか。僕の「罪」とはいったい何なのだろうか。僕は罪びとですと告白するとき、それはいったい何を意味しているのだろうか。なかなか難しい。みんな何を思って自分を罪びとだと思うのだろうか、思っているのだろうか。

結局、聖書に書いてある命令を守ることができないから罪びとと告白しているのではないだろうか。そう考えるのならば、もはや聖書の言う命令は律法と同じで、僕を縛るものでしかないではないか。僕を罪に定めるものでしかないではないか。僕たちの主イエスが発したすべての命令は、旧約の律法と何も変わらないではないか。

旧約の律法も、新約の命令も、結局のところ僕を縛る、僕を罪に定める、僕を罪の中にとどめておくだけの装置ではないか。

聖書と言うのは、僕を罪に定めるだけの装置なのではないか、僕はそんな風に思う日々が続いた。聖書に書かれていることが守れなければ僕の「罪」で、僕が聖い生活を行なうことができたのなら、それは神様のおかげ。なんなんだ、これは!神は僕を搾取する存在でしかないではないか!僕を罪の中に閉じ込め、神に頼らなければこの罪から逃れられないようにして神を求めさせるという、まさにしゃぶづけにされているのと何も変わらないではないか。中毒者にさせておいて、ジレンマに陥れる。マインドコントロールやカルトとなんら手口は変わらないではないか。僕が神から離れようとするすべてのものは僕の「罪」であり、僕が思うこと、考えること、行なうことはすべて「罪」に傾くと嘯いて、ズブズブにさせている。これが神の行なっていることなのではないか。

そんな思いが僕の頭を横切る。

 

神と言うのは、宗教と言うのは、ただ、そういった存在なのであろうか。僕たちの主イエス・キリストの死は、僕たちを「罪」の内に閉じ込めるために来られた、神の地位を確立させるために来た、神を救うための救い主メシヤだったのだろうか。

 

そんな思いに取りつかれてしまっていた時期があった。

 

しかし、僕の良心は、違うという。全く逆であると告白する。それは、すべて神側に責任を置いている結果である。この論理に、僕はどこにもいない。僕と言う存在はいったい誰なのか。それが大きな問題なのである。誰からも必要とされず、誰からも認められず、誰からも相手にされない。いや、むしろ人に不快を与え、悲しみを与え、苦しみを与え、負しか与えることのできない、僕と言う存在がとてつもなく大きな問題なのである。

僕はどうして生きていてよいのか。僕はどうして存在していてよいのか。そこにこそ、大きな大きな意味があるのである。

 

神は命令された。神を愛せよと。

神は命令された。自分を愛するように隣人を愛せよと。

 

これには、どんな意味があるのだろうか。

神は、愛なんてカケラもない存在に対して、愛せよと命令するなんて、どういったことなのだろうか。愛することのできない僕をますます罪に閉じ込めるがためにこんな命令をしているのだろうか。僕にはとうてい無理な命令を差し出しておいて、ほら無理だろ、わたしに頼れ、と、そう言いたいがために、僕にそんな命令をされるのだろか。

 

そうなのだ。

僕の良心は、いや、聖霊は僕に語られる。否と。

 

全く違う。見当違いも甚だしい。

悪魔とは、こうも巧妙で素晴らしい存在なのだろうか。

愚かしさにもほどがある。

 

なぜ、神は僕にこんな命令をされたのか。

そんなのは、簡単なことなのである。

 

神が、まず神が、神が最初に僕を愛されたからなのである。

 

イエス・キリストの十字架という、ご自身をささげるという愛によって、まず僕を愛してくださったからこその命令なのである。

 

それでも、愛のカケラもない僕が人を愛することなんて無理だって?

 

笑わせちゃあいけないよ。

まだ、そんなくだらない、自分自身だけを見つめて腐っているのか?

そんなこたぁ、神様はとうの昔から知っているんだよ。

人間を創造したその前から知っていたんだよ。

 

まだ、悟らないのか?

愛するってことがどんなことなのかをまだ悟らないのか?

まだわからないのか?

 

神が示してくれたのに、まだわからないのか?

 

自分を捨てるってことが愛なんじゃないか。

相手を見続けるってことが愛なんじゃないか。

まさしく、今自分の前にいる相手を見続けるってことが愛なんじゃないか。

 

アダムはそうやってエバを愛しただろう。

 

そして、僕たちの主イエスもそのように愛されたではないか。

 

遠くのどこかにいる、誰かを愛したのではないのだよ。

まさしく、今ここにいるあなたのことを愛したのではないか。

 

もう、自分を見ることはやめようではないか。

ただ神だけを見続けることを始めようではないか。

 

なぜって?

 

それは、まず神が僕たちを愛されたからだよ。

 

だから、全然逆なのだよ。

 

神は、僕たちを罪に定めるために命令を与えられたのではない。

神を愛し、僕たちが愛し愛される関係を築けるように、命令を与えられたのだよ。

この命令は、まず神が僕たちを愛してくださったという事実がなければ成り立たない。もしもその事実がなければ、この命令も旧約の律法と同じ僕たちを罪に定めるためだけの命令になってしまうのである。

 

神は、自分自身を見ることをやめられた。

神であると主張することをやめられた。

神は、わたし、ではなく、あなたに視点を置くことをされた。

だから、僕も、自分、ではなく、貴方に視点を置くことを始めなければならないのです。

 

できない?

 

まだそんなことを言っているのですか?

 

できるとか、できないとか、そんなことは問題ではないのです。

そう在れば良いのです。

愛の内に留まれば良いのです。

 

どうすれば良いかって?

 

まだ、わかっていないようですえ。

方法論ではないのですよ。

神は僕を愛されている、そして、僕も愛するために存在している、ということをただ認めるだけなのですよ。

神も、僕も、あなたも、ただ、愛というためだけに存在している、そう在るだけなんです。

こうしたから、愛、ああしたから、愛、そうしないと愛ではない、どうしないと愛ではない、なんてこれからの可能性を問題にしているのではないということを理解しなさい。悟りなさい。

 

僕たちは、愛のためだけに召され、愛のためだけに存在しているのだということを。

 

愛とは何か。

そんなことを考えてしまうところに、僕たちの愚かしさがあります。

僕たちは理性を用いて、愛という現象を捉えないまでは、愛というところに飛び込むことができない。自分が愛と言う存在であることに満足できない。落ち着いていられない。赦せないのです。

 

私は見るまで信じない!

まさしく、トマスがそうだったでしょう。

 

この人はどうなんですか!?

そう聞いたペテロもまったく一緒でしょ。

 

ペンテコステの日に何があったのか知らないのですか?

弟子たちが主イエスを理解したのは、理性によったのですか?経験によったのですか?

 

聖霊によったのでしょ。

 

まだわからないのですか?

 

僕たちの存在が愛だということなんです。

 

だから、行ないは関係ないのです。行為は関係ないのです。

 

信仰自身が僕たちを清めるわけでもないのです。

 

僕たちを聖めるのは、ただ、主イエス・キリストの十字架の血潮です。

あれ?突然現実離れしてしまった感じですか?

全然違いますよ。

イエスの十字架の血潮が僕たちの間違った存在の在り方にピリオドを打ったのでしょ。

何かができなければ認められないという存在の在り方にピリオドを打ったのではないですか。

 

僕たちの主イエスは、十字架の前に何をされたのですか?全くの無力だったではないですか。弱弱しくあったではないですか。ただ、十字架に従ったのではないですか。主は何をされたのですか?何もしていないではないですか。ただ、律法が、僕たちの主イエスを十字架にかけたのではないですか。僕たちの間違った存在の在り方が僕たちの主イエス・キリストを十字架につけたのではないですか。

なぜ、ここに何かを付け加えようとするのですか?なぜ、自分の行ないを付け加えようとするのですか?

見当違いも甚だしいことがわかるでしょ?

僕たちの主は、何もされなかった。ただ、従われただけなのですよ。僕たちの間違った存在の在り方に。

 

神がモーセに与えた律法。

それは、僕たちが望んだ存在の在り方なんですよ。

自分たちが何かをすることによって、神の民になるということを望んだ結果なのですよ。

アダムとエバが善悪の知識を食べたのはそういうことでしょ?

彼らは神のようになりたかったのでしょ?

神と同じ存在になりたかったのでしょ?

神から与えられるのではなく、自分たちの手で、自分たちの行ないによって神のようになりたかったのでしょ?

だから、自分の手を伸ばして、まさしく、この自分自身の手を伸ばして、善悪の知識の木の実をもぎ取ったのでしょう?

自分自身によって神のようになるために。

 

これが、神に創造された初めから僕たち人間が望んだ存在の在り方なのです。

だから、神は僕たちに律法を与えられたのです。

僕たちの望んだ存在の在り方を満たすために。

 

サウル王が与えられたのも、同じ理由ではなかったですか?

イスラエルの歴史は、イスラエルの民が望んだ形で神は常に与え続けられたではないですか。

 

神は、常に僕たちの望んだ形で答えられるではないですか。

 

なぜなら、僕たちは自分の望んだ形が満たされるという形でしか、幸福を得ることができない悲しい生き物だからですよ。

 

だから、主イエスが僕たちに与えられるまでは、神はご自身を注ぎ出して与え続けてくださったではないですか。僕たちの望む形で。

 

でも、もうわかっているでしょ?

その僕たちが望み続けて来た形が、僕たちが望み続けた存在の在り方というものが僕たちに不幸しかもたらさないという事実を。

 

神は、最初にそんな風に僕たちを創造されなかったのですよ。

僕たちは愛として創造されたのです。

神は愛です。

だから、神の似姿に創造された僕たちも愛なのです。

 

もう一度、繰り返しましょうか。

 

僕たちは、愛することができるとか、できないとかは全く関係ないのです。

僕たちは愛するために召され、愛するために創造され、僕たちの存在の在り方そのものが愛なんだってことなんです。

 

それを信じることが信仰なのですよ。

 

僕たちという存在が愛であるということを、信じませんか?受け入れませんか?

神が僕のことを愛し、僕も神を愛し、隣人を愛するのだと信じませんか?

 

そのように神によって創造されたのだと。

 

神はまさに、その存在の在り方の転換を僕たちに求められているのです。

まだ、昔の存在の在り方に留まるのですか?

まだ、自分が何かすることによって得られる愛を求め続けるのですか?

そんな存在の在り方は僕たちに苦しみと悲しみしかもたらさないのではなかったですか?

 

神は、求める者には求め続けられます。

他人に、自分に、神に求め続ける者には、求め続けられます。

自分で神のようになりたいと望む者には、その手段によって神のようになられることを望まれます。

だから、悪賢いしもべは、主人に借金のあるものの債務を軽くしてあげることによって味方つくるという方法を取った時に主人に褒められたのでしょ?

 

間違った存在の在り方を求め続けるのであれば、その道によって達成しなさい。

 

ただ、神はそれが不可能であることを良くご存知です。

だから、主イエスが僕たちのために十字架にかかってくださったわけですから。

 

いや、人間すべてにその間違った存在の在り方による神の民になることが不可能かどうかを僕は知らない。

ただ、知っているのは、僕には不可能である、という事実だけである。

 

だから、僕はやめます。自分の力によって、自分の手によって神の民となるということを。

そして、神が世界の初めから、僕を愛の存在として創造されたことを信じます。

それ以外の方法を僕はまったく望みません。

いや、だから、望むということも間違っている。

そう僕は存在しているということを僕はただ受け入れるのです。

 

アーメン

どこで間違ってしまったのだろうか

 どこで間違ってしまったのだろうか。僕はそんなつもりで言ったわけではないのに・・・

 あなたに何かを伝えたいのだけれど、あなたにどのように伝わるのかがわからなくて、怖くなってしまう。僕はどんな言葉を使って、どんな身振り手振りをして、どんな方法を用いれば、僕のこの気持ちはきちんとあなたに伝わるのだろうか。僕の口からこぼれる言葉は、いつも僕が言いたいことではないんだ。なぜか、言葉にしたとたんに、僕の言いたかったことが次々と失われて行ってしまうんだ。それで、結局相手の耳に届く言葉と言ったら、取るに足りない、僕の気持とは程遠いものになってしまうんだ。でも、たまには上手に表現できたなってときもあるんだ。僕の気持ちをうまく表現できたなってことも中にはあるんだ。でもね、でもなんだよ。相手の表情を見てみると、おかしいなぁ。なんか不快な顔をしているんだ。僕はあなたを褒めたかったのに、あなたの心を躍らせたかったのに、なんだか違う反応があなたから返って来たんだ。どこでどう間違ってしまったのだろうか。どうして、僕の気持ちというのは伝わらないのだろうか。僕の表現の仕方がいけないのか?それとも、相手の受け取り方がいけないのか??はてさて、どちらもいけないのか???

 ああ、僕の頭はパンク寸前だ。こんなことばかり考えているんだから。

 どうして、こんなにもわかりあえないんだろう。あの時は、わかりあえていたって思えていたんだよ。あの時は、僕も上手にうまい言葉を使って、表現できて、それでいてあなたも僕が望んだそのまんまの表情をしてくれたんだよ。だからね、わかりあえたんだって思えたんだよ。あの時は。あの時はね。でも、その次の瞬間、それが崩壊したんだ。崩れ落ちて行く音が本当にしたんだよ。ビックリしちゃった。

 なんでなんだろう?なんで僕の気持ちは全然伝わらないんだろう。僕は君に悪意なんてないのに、なんでこんなにすれ違ってしまうんだろう。

 こんなすれ違いを全部リセットして、やり直すなんてことは可能かなぁ。全部をリセットするんだ。全部をリセットして、やり直すんだ。そうすれば、もっとうまい具合に自分を表現できると思うんだけどどうかなぁ?そうは思わないかい?もっと良い世界にするんだよ。世界を変えるんだ。僕の想いがきちんと伝わる世界に変えるんだ。でもね、僕の想いだけが伝わったって仕方がないんだ。なぜって、僕はあなたとわかりあいたいんだからね。だからね、だから、僕たちがわかりあうことのできる世界を作るんだ。そうすれば、僕たちはもっと幸せになれる。僕たちはもっと気持ちよくなれる。僕たちはもっと、お互いを尊重しあえる、そんな気がするんだ。

 

 あなたはどう思う?

 

 そんな世界は素晴らしいって思わないかい?

 

 でもね、ちょっと不安もあるんだ。本当に僕たちがわかりあうことってできるんだろうか?って。本当に僕たちはわかりあえる日が来るんだろうかって。だって、原因がわからないんだもの。僕とあなたがわかりあえない原因がわからないんだよ。世界の問題なんだろうかって、不安になっちゃうんだ。本当に世界を、世界を素敵な世界にしたら、僕たちは本当にわかりあえるんだろうかって、そう思っちゃうんだ。

 

 なんでなの?なんで僕たちはわかりあえないの??

 

 僕のせいなの?それともあなたのせいなの?それともそれとも、世界のせいなの?何のせいなの?どんな世界なら、僕たちはわかりあえるの??

 

・・・もうわからない

 

 

 僕はそもそも、何でわかり合いたいんだろうか?僕はあなたとどうしてわかりあいたいんだろうか。どうして僕はきちんと僕の気持ちをあなたに伝えたいんだろうか?

 それなら、わかるんだ。どうして僕の気持ちをあなたに伝えたいのかって、それは、あなたに僕のことをわかってもらいたいからなんだ。僕はこう考えていて、こう思っているってことをあなたにわかってもらいたいからなんだ。なんとなくなんかじゃなくって、僕が今まさに感じている、この気持ちを、この気持ちのままあなたにわかってもらいたいからなんだ。だから、僕は自分の気持ちをあなたにきちんと伝えたいし、あなたにもきちんと受け取ってもらいたいって思うんだ。

 

 それは、それは、それは、僕が、僕がここにいるってことをあなたにきちんと知っておいてもらいたいからなんだよ。あなたに僕の存在を、認めてもらいたいからなんだ。だから、僕の気持ちがきちんと伝わらないと、なんだか寂しい気持ちになっちゃうんだ。僕とあなたの間にある、深い深い溝を感じてしまうからなんだ。