まよあん

或るキリスト者の祈り

ヨシュア記 四章

ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、背負って運ぶほどの石を川底から拾ってきます。
その数は、イスラエルの民の部族と同じ十二の石でした。彼らはそれをそれぞれの宿営地であったギルガルに運び、そこに据えました。

そして、彼らはエリコと戦うためにいくさ備えをし、エリコの草原へと進んで行くのでした。

この出来事によってイスラエルの民は、モーセさんを恐れたように、ヨシュアさんも恐れるようになったのです。神さまがヨシュアさんと共におられるということを目の当たりにしたのです。

さて、ヨルダン川から拾ってきた十二の石は、どういう意味があるのでしょうか。
ヨシュアさんはこのように語っています。

「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか』と聞いたなら、
あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』
あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。
それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(21~24節)

これらの石は、神さまの力強さを人類すべてが知り、イスラエルの民がいつも神さまを恐れるために必要なものである、ということをヨシュアさんは言うわけです。

ここで重要なのは、神さまの偉大な御業、力強い御手、神さまの存在、それらは僕たち人間が語り継いで行かなければならない、ということです。
そして、ここに聖書の重要性があるのです。
聖書とはまさに、神さまの存在、神さまの愛、神さまの恵み、神さまの希望、それらがイスラエルの民を通し、初代キリスト者を通し、語り継がれて来た書物なのです。
神さまは、そのようにしてご自身をお示しになる、ということです。
それが啓示です。

僕たちは、神さまご自身が自らを現してくださらなければ、神さまを知ることはできません。
確かに、この大自然を見れば神さまの存在を知ることができるかもしれません。
しかし、そのようにして知られる神は、汎神論的な神です。
僕たちの知性は愚かで暗い。それゆえ、神さまから真理を知る光を与えられなければ、神さまのことも、イエスさまの十字架の死と復活も、聖霊さまの満たしも知ることができないのです。

イスラエルの民を通して神さまがご自身を現してくださらなければ、初代キリスト者を通して神さまの愛と恵みを現してくださらなければ、僕たちは神さまを知り、キリスト者になることは不可能でした。
すべてが、神さまの深い計画の内にあるということを教えられるのです。

現代は、何でも人間の理性で知ることができ、人間は自分たちの力であらゆる困難を乗り越えて行くべきである、という人間中心主義、または人間至上主義が幅を利かせています。
しかし、聖書が語ることは、神さまの力強い御手なのです。
僕たちは、その神さまに従うだけなのです。
神さまに従うときにだけ、僕たちは勝利をおさめることができ、すべての困難を乗り越えることができるのです。

僕たちは、人間の本性への楽観視や根拠のない自信を捨て去るべきです。
それらが人類を破滅に追いやっていることは明確です。

神さまへの従順と誠実は、人間性の放棄なのではなく、人間性の成就であると知るべきです。
人間の理性は暗く、神さまの光によらなければ、真理を知ることはできないと知るべきです。

神さまがいなければ、この世界のすべては崩壊するのです。