まよあん

或るキリスト者の祈り

神さまと僕

神さまは僕に語られる。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

僕は神さまに答える。
「僕には何もありません。僕は何もできません。
僕は人を傷付けるばかりで、人の役にはまったく立たない者です。
それなのにどうして、僕が愛されることがあるでしょうか。
喜んでもらえることがあるでしょうか。」

神さまは語られる。
「恐れてはならない。おののいてはならない。
わたしこそ神であることを知れ。
わたしは全能の主である。
わたしに逆らうあなたは何者か。」

僕はただただこう答えます。
「あなたは全能なる主です。
主権はあなたのものです。
誰があなたに立ち向かえましょうか。
あなたは僕を愛し、喜んでくださいます。
僕の現実の不安がその事実を僕から取り去ろうとします。
僕はあなたを信じます。
あなたの愛を信じます。
あなたこそ、全能の父なる神、主ですから。」

僕の持っているもの

僕が持っているものと、君が望んでいるものは、どうしてこんなに食い違ってしまうんだろう。僕の手のひらの上にあるものは、本当にちんけなものにしか見えてこない。

ただ僕は君に喜んでもらいたいだけなんだ。君を喜ばせたいだけなんだ。それなのに、僕には君が望んでいるものは何もないんだ。

僕は君に何をあげられるのだろうか。君は僕に何を望んでくれるのだろうか。

何もないじゃないか。

僕の生きる価値は、どこから来るんだろうか。僕には何もないのに。。。

僕は生きていて良いのだろうか。世界は僕を拒絶しているのに。。。

僕は自分を伝えすぎているな

なんだか悲しさが胸をつついている。

むなしさが僕の重心をただただ下げ続けている。

僕は自分を伝えすぎている、そう思う。

だから、悲しくて、むなしいんだ。

僕が伝えるべきは神さまのことであるのに、いつも僕が前に立って神さまを隠している。

僕は何に一生懸命になっているのだろうか。

いろんな人々の反応が僕の心を苦しめる。
そう、苦しめる。

僕が伝えたいこと。
それは、天地をつくられた神さまはあなたのことを心から愛しているってこと。

僕たちに求めるばかりの社会、僕たちを否定し続ける社会、僕たちを拒み続ける社会
そんな中に生きる僕たち。
でも、僕たちがそんな社会を望んでいるんだ。
僕たちは自分が努力したら、正しく評価され、報酬を受けたいと思っている。
そういった思いが、息苦しい社会を生み出しているんだ。

神さまは何の掛け値もなく、僕たちを愛してくださっている。
神さまは僕たちに何かがあるから愛してくださっているのではない。
僕たちの存在を、ただ存在するからという理由で愛してくださっている。
僕たちはただ、この愛に飛び込めば良いだけなのです。

神さまは愛です。
そして、あなたも愛なのです。
神さまの内に憩い続けるのならば。

何を書こうかなぁ

さて、何を書こうかなぁ。
そんなふうに思っている次第であるわけです。
とりあえず、心に上ってきたものを、ただひたすらに書きなぐって行こうかと思います。

少し気持ちを落ち着けてみると、なんだかすべてがどうでも良くなってしまう。
今は、そんな気持ち。
僕は、誰かにさらされているという意識で文章を書きたいと思っている。
それは、誰かに見てもらいたいというよりは、そういう意識で書きたい、ということなんだと思う。

誰も僕の声を聞いてくれない。
ものすごくそう思うけども、それはそれでどうでも良い気もする。
誰かのためになることを書きたいというわけでもない。

ただ、この文章のひとつひとつは僕の信じる神さまへの祈りになっていることは確かである。

僕は神さまがとても大好きだ。
愛してるって表現したいけど、自分勝手な僕がいつもいるから、愛してるって表現できるほど自信は持てない。
それでも、僕は神さまが大好きだ。
神さまのことを考えているときが一番の幸福だ。

こう書いているまさに今、僕のこころがホッと暖かくなった。
なんでだろう。
きっと、自分に向けていた視線を、神さまに向けることができたからかな。

こういう生産性のない文章って本当にクソだなって思う。
誰の益にもならず、本当に無意味だなって思う。

でも、同時に、僕にとって意味あることは、こういうことでしかないのかなとも思う。
無理に意味をつけ加えてみたり、無理に良いことを言おうとしてみたり、そういうことの方が僕にとっては、滑稽でもある。

僕はあなたのことを本当に知りたいと思う。
そして、僕のことも知ってもらいたいと思う。
僕とあなたの関係で僕が望むことは、ただそれだけなんだ。

さて、神さまは偉大です。
どこまでも偉大です。
「神さま」っていうと本当に小さな存在に押し込められてしまって残念だけど、僕は他の表現の仕方がわからない。

神さまは、この世界を創造し、人間を誕生させ、今でも自然を支え、人々のこころを支え、僕を支えてくださっている。
すべての根幹が神さまであり、すべての自然法則は神さまによって成り立っている。
僕を襲ってくる瞬間瞬間は、すべて神さまが生起させているもの。
この世界は、すべて神さまによってできているのです。

僕たちは神さまの中に生き、神さまと共に生き、神さまの後に続き、神さまを目指して生きるのです。
そう、意味不明なのです。
でも、僕にはとても良くわかる表現なのです。

早く、神さまを目指すひとびとが一堂に会するときがやってくれば良いのにな。
僕はこころが狭くて、受け入れられない人もいるけど、そういう人ともうまくやっていける、いや、もっと積極的に、愛し愛される世界を生きられるのだろうなって思う。

はやく神さまに会いたい。
いや、今もまさに出会い続けている。
僕が望むのは、神さまの存在を、僕のすべての存在をかけて感じられるほどの世界になってほしいってこと。

社会も自然も淘汰であふれている。
僕はこれを正常だとは思えない。

すべての生物が、神さまの前に憩える日を本当に心から待ち望むのです。

ヨシュア記 四章

ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、背負って運ぶほどの石を川底から拾ってきます。
その数は、イスラエルの民の部族と同じ十二の石でした。彼らはそれをそれぞれの宿営地であったギルガルに運び、そこに据えました。

そして、彼らはエリコと戦うためにいくさ備えをし、エリコの草原へと進んで行くのでした。

この出来事によってイスラエルの民は、モーセさんを恐れたように、ヨシュアさんも恐れるようになったのです。神さまがヨシュアさんと共におられるということを目の当たりにしたのです。

さて、ヨルダン川から拾ってきた十二の石は、どういう意味があるのでしょうか。
ヨシュアさんはこのように語っています。

「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか』と聞いたなら、
あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』
あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。
それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」(21~24節)

これらの石は、神さまの力強さを人類すべてが知り、イスラエルの民がいつも神さまを恐れるために必要なものである、ということをヨシュアさんは言うわけです。

ここで重要なのは、神さまの偉大な御業、力強い御手、神さまの存在、それらは僕たち人間が語り継いで行かなければならない、ということです。
そして、ここに聖書の重要性があるのです。
聖書とはまさに、神さまの存在、神さまの愛、神さまの恵み、神さまの希望、それらがイスラエルの民を通し、初代キリスト者を通し、語り継がれて来た書物なのです。
神さまは、そのようにしてご自身をお示しになる、ということです。
それが啓示です。

僕たちは、神さまご自身が自らを現してくださらなければ、神さまを知ることはできません。
確かに、この大自然を見れば神さまの存在を知ることができるかもしれません。
しかし、そのようにして知られる神は、汎神論的な神です。
僕たちの知性は愚かで暗い。それゆえ、神さまから真理を知る光を与えられなければ、神さまのことも、イエスさまの十字架の死と復活も、聖霊さまの満たしも知ることができないのです。

イスラエルの民を通して神さまがご自身を現してくださらなければ、初代キリスト者を通して神さまの愛と恵みを現してくださらなければ、僕たちは神さまを知り、キリスト者になることは不可能でした。
すべてが、神さまの深い計画の内にあるということを教えられるのです。

現代は、何でも人間の理性で知ることができ、人間は自分たちの力であらゆる困難を乗り越えて行くべきである、という人間中心主義、または人間至上主義が幅を利かせています。
しかし、聖書が語ることは、神さまの力強い御手なのです。
僕たちは、その神さまに従うだけなのです。
神さまに従うときにだけ、僕たちは勝利をおさめることができ、すべての困難を乗り越えることができるのです。

僕たちは、人間の本性への楽観視や根拠のない自信を捨て去るべきです。
それらが人類を破滅に追いやっていることは明確です。

神さまへの従順と誠実は、人間性の放棄なのではなく、人間性の成就であると知るべきです。
人間の理性は暗く、神さまの光によらなければ、真理を知ることはできないと知るべきです。

神さまがいなければ、この世界のすべては崩壊するのです。

ヨシュア記 三章

ヨシュアさんが率いるイスラエルの民はシティムを出発し、ヨルダン川を渡ります。
このとき不思議なことがおこりました。
ヨルダン川の水がせきをなして立ち、上から来る水は完全にせきとめられたのです。
そして、イスラエルの民はかわいた地を通り、ヨルダン川を渡ったのでした。

この出来事は、モーセさんがイスラエルの民を率いていたときに葦の海が割れて、イスラエルの民がかわいた地を進んだ出来事に良く似ています。というか、神さまがイスラエルの民に対して、モーセさんと共におられたようにヨシュアさんとも共にいるということを示すために起こしたことでした。

現代に生きる僕たちには、本当に信じがたい出来事です。
しかし、聖書を読むには、奇跡についてきちんと考えておかなければならないでしょう。
キリスト者にとって奇跡をどうとらえるかはアキレス腱です。なぜなら、奇跡を否定するか肯定するかによって、イエス・キリストの復活の奇跡を否定するか肯定するかにつながるからです。イエス・キリストの復活を否定すれば、それはキリスト教の教義に反します。伝統的な立場に立てば、イエスさまの復活を否定する人は、キリスト者ではありません。

では、今回の出来事はどのようにとらえたら良いのでしょうか。
文字通り、ヨルダン川がせきとめられ、かわいた地をイスラエルの民が渡ったと読むことが正しいのでしょうか。

はっきり言ってしまえば、聖書の奇跡を科学的に検証することは無意味です。
意味があるとしたら、人間の知的欲求を満たすだけであって、僕たちの信仰にとっては何も意味を持たないのです。

奇跡とは何でしょうか。超自然的なことが奇跡なのでしょうか。科学では解明できないことが奇跡なのでしょうか。
まったく違います。
奇跡とは、私個人の経験に照らし合わせたときに、起こりえない出来事を奇跡と呼ぶのです。奇跡とは、個人または同じ価値観を共有する共同体に依存するのです。
ですから、聖書における奇跡とは、聖書を記述したイスラエルの人々にとって奇跡と映った出来事なのであり、その出来事が超自然的であったり、科学で解明できるかどうかは全く関係ないのです。

奇跡とは、不思議な出来事なのです。
そして、その不思議な出来事の中に、イスラエルの民は神さまの御手を見たのです。
しかし、ヨルダン川がせきとめられているように“見えた”というわけではありません。ヨルダン川はせきとめられたのです。聖書の記述のとおりの出来事が文字通り起こったのです。イスラエルの民はその出来事を経験したゆえに、そのままに記述したのです。

もしも、僕の言っていることが理解できないとしたら、それは“科学”という害悪に侵されています。
“科学”は何か客観的な出来事、客観的な真理、みたいなものが存在すると語ります。
しかし、少し考えてみればそんなものは存在しないということがわかります。

たとえば、机の上に財布があったとしましょう。
ある人はその財布は落ちていると考えるかもしれません。またある人はその財布は置いてあると考えるかもしれません。はたまた他のある人はその財布は忘れ物であると考えるかもしれません。どれが真理なのでしょうか。
なるほど、その財布の所有者に聞いてみれば良いかも知れません。しかし、その所有者が自分は財布を落としたのか、置いたのか、忘れたのか、全く覚えていなかった、または無意識に行なっていることであったらどうでしょうか。いくら議論してみたとしても、答えはわかりません。というか、答えなんてないのです。所有者自身が無自覚だからです。

もしかしたら、ある人はこう言うかもしれません。
その財布が机の上に置いてあったという事実は客観的真理であると。
なるほど、そこに財布があったということは、客観的な真理のようにも思えます。
しかし、それは誰かが“発見”した場合に限ります。もしも、誰もその財布を“発見”しなかったら、財布は机の上に置いてあったと言えるのでしょうか。置いてあったと言える気がしますよね。

それを考えるためには、宇宙の外側について考えてみればよくわかるのではないでしょうか。
宇宙の外側には何があるのでしょうか。
現時点において、誰もわかりません。宇宙の外側にはイカといる、と言うことができるでしょうか。できませんよね。
しかし、誰かが、宇宙の外側にイカがいることを“発見”すれば、宇宙の外側にイカが存在すると言うことができます。“発見”してはじめて、そこに何かが存在していると言えるわけです。

机の上の財布が誰からも“発見”されず、所有者さえもその存在を忘れていた場合、その財布は机の上にある、と言えるでしょうか。
机の上に財布があるかどうかは、誰にもわからない、ということです。
つまり、客観的な真理は存在しないということです。

科学の害悪についてついでにつけ加えておけば、科学とは人類の英知であるわけです。人類が築き上げてきた英知なのです。そこに害悪があるのです。
つまり、科学的な知は、個人の経験を不当に肥大化させるのです。
僕は万有引力の法則というものを学校で習いました。しかし、僕自身、実験をしたわけでも天体を観測したわけではありません。見たことも会ったこともない、どこかの誰かが、実験し、観測した結果を、まるで自分が経験したことであるかのように、無批判に受け入れて知ったふりをしているわけです。
僕は科学的な知のどれ一つとして、自分で経験したものはありません。しかし、まるで僕が経験したことかのように、その知を振り回すわけです。

科学とは、文字通り、“人類”の英知なのです。それゆえ、不当に個人の経験を肥大化させるわけです。同じ人類であるというだけで、他の誰かが経験した(かもしれない)ことを僕の経験としているわけですから。人類の総合的な知が科学的な知なのです。

このことは、奇跡というものを不当に貶めているのです。奇跡とは、僕自身の経験を越えた不思議な出来事であるはずです。しかし、科学的な知を身にまとう僕たちは、他の誰かが経験した(であろう)出来事を盾に奇跡を排除するわけです。または、いつか、他の誰かが経験してくれるだろう、という楽観的な視点に立つことを容易にさせるのです。

僕の目の前で繰り広げられている、不思議な出来事たちは、僕ではない誰かがいつか、起こり得る出来事として経験してくれるだろうと、いまだ解明されていないものについても身をゆだねてしまうわけです。

未知なるものに対しても、不当な経験の肥大化が生じているわけです。

聖書の奇跡の話に戻りましょう。
イスラエルの民は、自分たちの経験を超えた出来事を見たのです。聖書に記述されている通りに、文字通りの出来事を見たのです。

そういうわけですから、僕たちキリスト者にとって、イエスさまは復活なされたのです。
僕たちの経験を越えて、復活されたのです。
それを聖書が証言し、多くのキリスト者が証言しているわけです。
しかし、僕たちの経験を越えている出来事であるゆえに、僕たちは復活の奇跡を信仰しなければならないのです。イエス・キリストの十字架の死と復活の中に希望があると、信仰しなければならないのです。

そして、僕たちはその信仰さえも神さまが聖霊さまを通して与えてくださるということを知っているのです。僕たちは個人的な経験としてそのことを知っているのです。

ヨシュア記 二章

モーセさんの後を継ぎ、リーダーとなったヨシュアさんは、エリコの地を偵察するために二人の斥候をつかわします。二人の斥候はエリコの町に入るとラハブさんという遊女の家に入り、そこを拠点としました。

しかしなぜ、二人の斥候は遊女であるラハブさんの家を拠点としたのでしょうか。
女遊びをしたかったのでしょうか。
聖書には詳しい記述はありません。

ただ、ラハブさんが二人の斥候をかくまった理由はわかります。
エジプトの国から逃れてきたイスラエルの強大さを聞いていたラハブさんは、イスラエルの民がエリコを滅ぼすとき、自分たちの家族、親族だけは救ってもらいたいと願ったわけです。

ラハブさんが二人の斥候に語ったことがどこまで真実かどうかはわかりません。
二人の斥候はヨシュアさんに「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」(24節)と、ラハブさんが語ったことと同じように報告をしています。

ラハブさんが語ったことが真実であるか、ないかはわかりません。それでも、わかることが一つあります。それは、ラハブさんは“救われたかった”という事実です。

僕たちが救いを求めるとき、それは、絶望を身にまとうときです。絶望が僕たちを支配するときです。そのとき、僕たちは救いを求めるのです。
彼女は絶望の中にあった。これから滅ぼされるかもしれない地の中にあって絶望を見ていた。
しかし、それだけでしょうか。僕は、彼女が自分の町であるエリコに対しても絶望を抱いていたのではないかと考えてしまうのです。遊女であった彼女は自分の町に、いや、自分の人生に絶望していたと。

だから、彼女はその救いをイスラエルに求めた。イスラエルの神に求めた。自分を、この町から、この境遇から、この人生から救い出してほしいと。

少し言い過ぎでしょうか。言い過ぎている部分はあるかもしれません。
しかし、確実なことは、今も昔も、“救い”という希望を見出すためには、絶望を身にまとわないといけないということです。絶望と言う暗闇の中でしか、ずーっと先にある一点の光に気が付くことはできません。しかし、その一点の光に気が付くとき、その一点の光が自分の存在にとって大きな光となり、かけがえのない光となり、自分の人生を照らす唯一の光になるのです。

“救い”という希望のかすかな光に気が付く人は、そのほんの一点であった光がだんだんと自分の中で大きくなり、最後には自分を満たしている事実を見ます。
闇が深いほどに、光は輝くのです。

イエス・キリストにおける希望の光は、この世に対して徹底的に絶望していなければ、気が付くことはないでしょう。徹底的に絶望している人だけに見出される光なのです。

それ以外の人たちにとっては、まったく愚かな光なのです。