まよあん

或るキリスト者の祈り

何を書こうかなぁ

さて、何を書こうかなぁ。
そんなふうに思っている次第であるわけです。
とりあえず、心に上ってきたものを、ただひたすらに書きなぐって行こうかと思います。

少し気持ちを落ち着けてみると、なんだかすべてがどうでも良くなってしまう。
今は、そんな気持ち。
僕は、誰かにさらされているという意識で文章を書きたいと思っている。
それは、誰かに見てもらいたいというよりは、そういう意識で書きたい、ということなんだと思う。

誰も僕の声を聞いてくれない。
ものすごくそう思うけども、それはそれでどうでも良い気もする。
誰かのためになることを書きたいというわけでもない。

ただ、この文章のひとつひとつは僕の信じる神さまへの祈りになっていることは確かである。

僕は神さまがとても大好きだ。
愛してるって表現したいけど、自分勝手な僕がいつもいるから、愛してるって表現できるほど自信は持てない。
それでも、僕は神さまが大好きだ。
神さまのことを考えているときが一番の幸福だ。

こう書いているまさに今、僕のこころがホッと暖かくなった。
なんでだろう。
きっと、自分に向けていた視線を、神さまに向けることができたからかな。

こういう生産性のない文章って本当にクソだなって思う。
誰の益にもならず、本当に無意味だなって思う。

でも、同時に、僕にとって意味あることは、こういうことでしかないのかなとも思う。
無理に意味をつけ加えてみたり、無理に良いことを言おうとしてみたり、そういうことの方が僕にとっては、滑稽でもある。

僕はあなたのことを本当に知りたいと思う。
そして、僕のことも知ってもらいたいと思う。
僕とあなたの関係で僕が望むことは、ただそれだけなんだ。

さて、神さまは偉大です。
どこまでも偉大です。
「神さま」っていうと本当に小さな存在に押し込められてしまって残念だけど、僕は他の表現の仕方がわからない。

神さまは、この世界を創造し、人間を誕生させ、今でも自然を支え、人々のこころを支え、僕を支えてくださっている。
すべての根幹が神さまであり、すべての自然法則は神さまによって成り立っている。
僕を襲ってくる瞬間瞬間は、すべて神さまが生起させているもの。
この世界は、すべて神さまによってできているのです。

僕たちは神さまの中に生き、神さまと共に生き、神さまの後に続き、神さまを目指して生きるのです。
そう、意味不明なのです。
でも、僕にはとても良くわかる表現なのです。

早く、神さまを目指すひとびとが一堂に会するときがやってくれば良いのにな。
僕はこころが狭くて、受け入れられない人もいるけど、そういう人ともうまくやっていける、いや、もっと積極的に、愛し愛される世界を生きられるのだろうなって思う。

はやく神さまに会いたい。
いや、今もまさに出会い続けている。
僕が望むのは、神さまの存在を、僕のすべての存在をかけて感じられるほどの世界になってほしいってこと。

社会も自然も淘汰であふれている。
僕はこれを正常だとは思えない。

すべての生物が、神さまの前に憩える日を本当に心から待ち望むのです。