まよあん

或るキリスト者の祈り

神さまと僕

神さまは僕に語られる。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 僕は神さまに答える。「僕には何もありません。僕は何もできません。僕は人を傷付けるばかりで、人の役にはまったく立たない者です。それなのにどうして、僕が愛されることがあるで…

僕の持っているもの

僕が持っているものと、君が望んでいるものは、どうしてこんなに食い違ってしまうんだろう。僕の手のひらの上にあるものは、本当にちんけなものにしか見えてこない。 ただ僕は君に喜んでもらいたいだけなんだ。君を喜ばせたいだけなんだ。それなのに、僕には…

僕は自分を伝えすぎているな

なんだか悲しさが胸をつついている。 むなしさが僕の重心をただただ下げ続けている。 僕は自分を伝えすぎている、そう思う。 だから、悲しくて、むなしいんだ。 僕が伝えるべきは神さまのことであるのに、いつも僕が前に立って神さまを隠している。 僕は何に…

何を書こうかなぁ

さて、何を書こうかなぁ。そんなふうに思っている次第であるわけです。とりあえず、心に上ってきたものを、ただひたすらに書きなぐって行こうかと思います。 少し気持ちを落ち着けてみると、なんだかすべてがどうでも良くなってしまう。今は、そんな気持ち。…

ヨシュア記 四章

ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は、背負って運ぶほどの石を川底から拾ってきます。その数は、イスラエルの民の部族と同じ十二の石でした。彼らはそれをそれぞれの宿営地であったギルガルに運び、そこに据えました。 そして、彼らはエリコと戦うためにいく…

ヨシュア記 三章

ヨシュアさんが率いるイスラエルの民はシティムを出発し、ヨルダン川を渡ります。このとき不思議なことがおこりました。ヨルダン川の水がせきをなして立つように、上から来る水がせきとめられたのです。イスラエルの民はヨルダン川かわいた地を

ヨシュア記 二章

モーセさんの後を継ぎ、リーダーとなったヨシュアさんは、エリコの地を偵察するために二人の斥候をつかわします。二人の斥候はエリコの町に入るとラハブさんという遊女の家に入り、そこを拠点としました。 しかしなぜ、二人の斥候は遊女であるラハブさんの家…

ヨシュア記 一章

モーセさんが死に、モーセの従者で、ヌンの子であるヨシュアさんに神さまの声が下ります。 <「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」>(2…

徒然なるままに

これまでの、キリスト教は、さまざまなものからの解放を行なって来ました。 律法からの解放、ローマ帝国からの解放、固定化されてしまった教会からの宗教改革による解放、迷信や魔術的なものからの理性による解放。 さまざまなものからの解放を行なって来た…

僕が日本の再軍備に反対する理由

僕は日本の再軍備に反対だ。理由は、何だろう。実は良くわからない。ただ、感じていることは、戦争は絶対に良くないということだし、戦争は軍隊がなければ起こらないと思っている、それが核になっている。ことは非常に簡単。軍隊がなければ、戦争は起こらな…

遺しておくものとして

一応、誰かの目に触れるものとして書いておかないといけないことなので。でも、おそらく、ここに書いても誰も見ないであろうから、ここに、書いておこう。僕が突発的に死んでしまうことはあるだろう。でも、それは誰かが悪いわけではない。僕のまわりの何か…

帰りの電車の中で

今日は大学生に取材を受けた。質問項目があって、カメラの前でそれらに応えて行くわけだけど、その質問項目の意味がわからなかった。何を聞きたいのかが良くわからなかった。だから、僕も答えに窮してしまった。質問というものは本当に難しいものだなと改め…

「罪」とは何だろうか。自分の中に「罪」があるというけども、それはいったい何なのだろうか。ルールや決まりがあって、それを守れないことが「罪」なのだろうか。僕の「罪」とはいったい何なのだろうか。僕は罪びとですと告白するとき、それはいったい何を…

どこで間違ってしまったのだろうか

どこで間違ってしまったのだろうか。僕はそんなつもりで言ったわけではないのに・・・ あなたに何かを伝えたいのだけれど、あなたにどのように伝わるのかがわからなくて、怖くなってしまう。僕はどんな言葉を使って、どんな身振り手振りをして、どんな方法を…

胸の奥がこんなにも空虚な夜は、ため息とともに死への欲求が顔を出す。無への渇望が僕の思考を支配する。でも、僕は良く知っている。死への欲求も、無への渇望も、それは悪魔のささやきであり、それはつまり、自我への執着なのだと。僕はわざわいなのです。…

神さま。つまらないよ。いろいろ、書くのがつまらないよ。何を書いたら良いのかわからなくなって来てしまいました。神さま。あなたの愛をかきたいな。あなたがどれだけ僕たちを愛してくださっているのか、それについて書きたいな。でもちょっと恥ずかしいん…

僕が語る領分

僕は自分の領分を侵してしまったようだ。僕は語る。しかしそれは、自発的な求めを招くためであって、心の中をこじ開けて、求めを引きずり出すためでは決してない。僕は語る。しかしそれは、僕が受けたものを与えているのであって、聞き手の反応に安住するた…

『キリスト者で“ある”』、『キリスト者に“なる”』、という或る成る問題への回答

何を持ってキリスト者と定義するかはとても難しい問題です。この問題は、新約聖書においてパウロも異端について論じていますから、「キリスト教」が発生してからずっと扱われてきた問題でしょう。 まずは、キリスト教会について考えてみたいと思います。つま…

なぜキリスト者にならなければならないのか

僕たちは誰が神の国に入り、誰が入れないのかを知らない。洗礼(バプテスマ)はその保証ではない。つまり、洗礼を受けたからといって神の国に入れるわけではないのだ。 では、誰が神の国に入ることができるのか。それは、神のみぞ知る、である。なぜなら、神…

はじめに

僕は主を信じます。旧約・新約を通して啓示される主を信じています。 今の世において…いや、これは世界のはじめからそうでした、主を信じると告白する者は、同時に主を証し、主が僕に何をしてくださったのか、何を語ってくださったのか、それを証しないとい…