まよあん

或るキリスト者の祈り

ヨシュア記 三章

ヨシュアさんが率いるイスラエルの民はシティムを出発し、ヨルダン川を渡ります。
このとき不思議なことがおこりました。
ヨルダン川の水がせきをなして立ち、上から来る水は完全にせきとめられたのです。
そして、イスラエルの民はかわいた地を通り、ヨルダン川を渡ったのでした。

この出来事は、モーセさんがイスラエルの民を率いていたときに葦の海が割れて、イスラエルの民がかわいた地を進んだ出来事に良く似ています。というか、神さまがイスラエルの民に対して、モーセさんと共におられたようにヨシュアさんとも共にいるということを示すために起こしたことでした。

現代に生きる僕たちには、本当に信じがたい出来事です。
しかし、聖書を読むには、奇跡についてきちんと考えておかなければならないでしょう。
キリスト者にとって奇跡をどうとらえるかはアキレス腱です。なぜなら、奇跡を否定するか肯定するかによって、イエス・キリストの復活の奇跡を否定するか肯定するかにつながるからです。イエス・キリストの復活を否定すれば、それはキリスト教の教義に反します。伝統的な立場に立てば、イエスさまの復活を否定する人は、キリスト者ではありません。

では、今回の出来事はどのようにとらえたら良いのでしょうか。
文字通り、ヨルダン川がせきとめられ、かわいた地をイスラエルの民が渡ったと読むことが正しいのでしょうか。

はっきり言ってしまえば、聖書の奇跡を科学的に検証することは無意味です。
意味があるとしたら、人間の知的欲求を満たすだけであって、僕たちの信仰にとっては何も意味を持たないのです。

奇跡とは何でしょうか。超自然的なことが奇跡なのでしょうか。科学では解明できないことが奇跡なのでしょうか。
まったく違います。
奇跡とは、私個人の経験に照らし合わせたときに、起こりえない出来事を奇跡と呼ぶのです。奇跡とは、個人または同じ価値観を共有する共同体に依存するのです。
ですから、聖書における奇跡とは、聖書を記述したイスラエルの人々にとって奇跡と映った出来事なのであり、その出来事が超自然的であったり、科学で解明できるかどうかは全く関係ないのです。

奇跡とは、不思議な出来事なのです。
そして、その不思議な出来事の中に、イスラエルの民は神さまの御手を見たのです。
しかし、ヨルダン川がせきとめられているように“見えた”というわけではありません。ヨルダン川はせきとめられたのです。聖書の記述のとおりの出来事が文字通り起こったのです。イスラエルの民はその出来事を経験したゆえに、そのままに記述したのです。

もしも、僕の言っていることが理解できないとしたら、それは“科学”という害悪に侵されています。
“科学”は何か客観的な出来事、客観的な真理、みたいなものが存在すると語ります。
しかし、少し考えてみればそんなものは存在しないということがわかります。

たとえば、机の上に財布があったとしましょう。
ある人はその財布は落ちていると考えるかもしれません。またある人はその財布は置いてあると考えるかもしれません。はたまた他のある人はその財布は忘れ物であると考えるかもしれません。どれが真理なのでしょうか。
なるほど、その財布の所有者に聞いてみれば良いかも知れません。しかし、その所有者が自分は財布を落としたのか、置いたのか、忘れたのか、全く覚えていなかった、または無意識に行なっていることであったらどうでしょうか。いくら議論してみたとしても、答えはわかりません。というか、答えなんてないのです。所有者自身が無自覚だからです。

もしかしたら、ある人はこう言うかもしれません。
その財布が机の上に置いてあったという事実は客観的真理であると。
なるほど、そこに財布があったということは、客観的な真理のようにも思えます。
しかし、それは誰かが“発見”した場合に限ります。もしも、誰もその財布を“発見”しなかったら、財布は机の上に置いてあったと言えるのでしょうか。置いてあったと言える気がしますよね。

それを考えるためには、宇宙の外側について考えてみればよくわかるのではないでしょうか。
宇宙の外側には何があるのでしょうか。
現時点において、誰もわかりません。宇宙の外側にはイカといる、と言うことができるでしょうか。できませんよね。
しかし、誰かが、宇宙の外側にイカがいることを“発見”すれば、宇宙の外側にイカが存在すると言うことができます。“発見”してはじめて、そこに何かが存在していると言えるわけです。

机の上の財布が誰からも“発見”されず、所有者さえもその存在を忘れていた場合、その財布は机の上にある、と言えるでしょうか。
机の上に財布があるかどうかは、誰にもわからない、ということです。
つまり、客観的な真理は存在しないということです。

科学の害悪についてついでにつけ加えておけば、科学とは人類の英知であるわけです。人類が築き上げてきた英知なのです。そこに害悪があるのです。
つまり、科学的な知は、個人の経験を不当に肥大化させるのです。
僕は万有引力の法則というものを学校で習いました。しかし、僕自身、実験をしたわけでも天体を観測したわけではありません。見たことも会ったこともない、どこかの誰かが、実験し、観測した結果を、まるで自分が経験したことであるかのように、無批判に受け入れて知ったふりをしているわけです。
僕は科学的な知のどれ一つとして、自分で経験したものはありません。しかし、まるで僕が経験したことかのように、その知を振り回すわけです。

科学とは、文字通り、“人類”の英知なのです。それゆえ、不当に個人の経験を肥大化させるわけです。同じ人類であるというだけで、他の誰かが経験した(かもしれない)ことを僕の経験としているわけですから。人類の総合的な知が科学的な知なのです。

このことは、奇跡というものを不当に貶めているのです。奇跡とは、僕自身の経験を越えた不思議な出来事であるはずです。しかし、科学的な知を身にまとう僕たちは、他の誰かが経験した(であろう)出来事を盾に奇跡を排除するわけです。または、いつか、他の誰かが経験してくれるだろう、という楽観的な視点に立つことを容易にさせるのです。

僕の目の前で繰り広げられている、不思議な出来事たちは、僕ではない誰かがいつか、起こり得る出来事として経験してくれるだろうと、いまだ解明されていないものについても身をゆだねてしまうわけです。

未知なるものに対しても、不当な経験の肥大化が生じているわけです。

聖書の奇跡の話に戻りましょう。
イスラエルの民は、自分たちの経験を超えた出来事を見たのです。聖書に記述されている通りに、文字通りの出来事を見たのです。

そういうわけですから、僕たちキリスト者にとって、イエスさまは復活なされたのです。
僕たちの経験を越えて、復活されたのです。
それを聖書が証言し、多くのキリスト者が証言しているわけです。
しかし、僕たちの経験を越えている出来事であるゆえに、僕たちは復活の奇跡を信仰しなければならないのです。イエス・キリストの十字架の死と復活の中に希望があると、信仰しなければならないのです。

そして、僕たちはその信仰さえも神さまが聖霊さまを通して与えてくださるということを知っているのです。僕たちは個人的な経験としてそのことを知っているのです。