まよあん

或るキリスト者の祈り

ヨシュア記 二章

モーセさんの後を継ぎ、リーダーとなったヨシュアさんは、エリコの地を偵察するために二人の斥候をつかわします。二人の斥候はエリコの町に入るとラハブさんという遊女の家に入り、そこを拠点としました。

しかしなぜ、二人の斥候は遊女であるラハブさんの家を拠点としたのでしょうか。
女遊びをしたかったのでしょうか。
聖書には詳しい記述はありません。

ただ、ラハブさんが二人の斥候をかくまった理由はわかります。
エジプトの国から逃れてきたイスラエルの強大さを聞いていたラハブさんは、イスラエルの民がエリコを滅ぼすとき、自分たちの家族、親族だけは救ってもらいたいと願ったわけです。

ラハブさんが二人の斥候に語ったことがどこまで真実かどうかはわかりません。
二人の斥候はヨシュアさんに「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」(24節)と、ラハブさんが語ったことと同じように報告をしています。

ラハブさんが語ったことが真実であるか、ないかはわかりません。それでも、わかることが一つあります。それは、ラハブさんは“救われたかった”という事実です。

僕たちが救いを求めるとき、それは、絶望を身にまとうときです。絶望が僕たちを支配するときです。そのとき、僕たちは救いを求めるのです。
彼女は絶望の中にあった。これから滅ぼされるかもしれない地の中にあって絶望を見ていた。
しかし、それだけでしょうか。僕は、彼女が自分の町であるエリコに対しても絶望を抱いていたのではないかと考えてしまうのです。遊女であった彼女は自分の町に、いや、自分の人生に絶望していたと。

だから、彼女はその救いをイスラエルに求めた。イスラエルの神に求めた。自分を、この町から、この境遇から、この人生から救い出してほしいと。

少し言い過ぎでしょうか。言い過ぎている部分はあるかもしれません。
しかし、確実なことは、今も昔も、“救い”という希望を見出すためには、絶望を身にまとわないといけないということです。絶望と言う暗闇の中でしか、ずーっと先にある一点の光に気が付くことはできません。しかし、その一点の光に気が付くとき、その一点の光が自分の存在にとって大きな光となり、かけがえのない光となり、自分の人生を照らす唯一の光になるのです。

“救い”という希望のかすかな光に気が付く人は、そのほんの一点であった光がだんだんと自分の中で大きくなり、最後には自分を満たしている事実を見ます。
闇が深いほどに、光は輝くのです。

イエス・キリストにおける希望の光は、この世に対して徹底的に絶望していなければ、気が付くことはないでしょう。徹底的に絶望している人だけに見出される光なのです。

それ以外の人たちにとっては、まったく愚かな光なのです。